2017年11月3日〜12月1日
メンバー:長島さん、藤原 雅一さん、小田中 智
現 場:乳房山手前、船木山周辺、剣先山周辺
友人の藤原さんから、小笠原村母島で10月中旬から荷揚げの仕事があるのでどうかという誘いを受けた。10月後半に娘の結婚式があるので終わってから参加することにした。
仕事の内容は、母島の乳房山と船木山周辺の遊歩道の階段や道の補修があり、その場所に木材などを荷揚げするというものだ。
小笠原諸島は世界自然遺産に登録され、母島のメインの観光でもある乳房山周辺の整備を東京都から小笠原興発株式会社が仕事を請け、10年ほど前に荷揚げを請け負った長島さんに再び依頼があったものらしい。
長島さんと藤原さんは雲表クラブの仲間で、私にも誘いが来て、3人で8トン程の荷物を運び上げるということだ。
長島さんと藤原さんは10月18日に東京を出発し、私は11月1日に東京を出発することになり、長島さんと私はその頃入れ替えとなるので、実質2人で荷物を運び上げることになる。
宿泊は民宿であるが、食事はすべて自炊ということで、荷揚げよりもそちらの方が大変そうだ。
11月からはガイド業が暇のため丁度良い仕事であり、小笠原諸島に行けることも魅力であり、仕事が終わってからの観光も楽しみだ。
10月31日盛岡を夜行バスで出発し、1日朝に東京に着き竹芝桟橋に向かう。父島へ向かうおがさわら丸は11時に出発し、24時間かかって父島二見桟橋に着く。母島へはそれから2時間かかるので、長い長い船旅となる。
24時間を2等和室で過ごすのであるが、1人旅では話す相手もいないので、酒を飲みながら本を読み、寝ることしかやることがない。
台風の影響かで船は揺れ、1時間遅れで二見桟橋に着いた。13時のははじま丸で母島に向かう。母島の沖港では藤原さんが迎えに来てくれ、今日から宿泊所が変わったという小笠原興発に向かう。
会社の2階の1部屋が、これから1ヵ月程を暮らす2人の部屋である。近くの商店に買い物に行くと、離れ島のため物価が高く、全ての商品が1.5倍以上もする。
会社の1階の調理場で炊事をして、隣の休憩室で食事をすることになる。1日の生活は、夕方仕事が終わり、入浴して食事をし、7時頃には眠り、朝4時に起きて食事して現場に向かうことになる。
母島の気候は11月でも日中は25℃程、朝は20℃程と亜熱帯性の気候で暑い。私が来る前はかなり暑かったらしいが、私が来ると同時にいくらか涼しくなったみたいだ。
長島さんは4日ほど前に帰ったといい、これからは2人で仕事をすることになる。長島さんと藤原さんは船木山の近い所から荷揚げしたと言い、明日からは一番遠い乳房山手前に荷物を運ぶという。
運ぶ荷物は、
乳房山へは1m杭、1.5m丸太、2m丸太、2.5m杭、3m丸太、70cm×2mグレージング、2mコの字型レール 約1.5トン
船木山周辺へは、砂袋、2m角材、80cm杭、休憩テーブル、パイプ 約7トン
乳房山に運ぶ荷物
船木山、大剣山に運ぶ荷物
2.5m杭を運ぶ
グレージングを運ぶ
荷物は玉川ダム手前と浄水場脇にあり、乳房山への道は玉川ダム手前から作業道を通り乳房山遊歩道を通り、山頂まで0.5km手前の場所に荷物を置く。
作業道は雨が降ると滑りやすくなり重い荷物を背負ってのスタンスは最悪であった。2m以上の長い荷は樹木に先が引っかかるので中腰になるのが大変で、1mの横幅の物は狭い道の樹木に引っかかるので横になるのがしんどかった。1日2往復が限度で、馬の背から見る大崩湾の海辺がコバルトブルー色に輝く様に癒された。
大剣山手前には浄水場脇から乳房山遊歩道を登り、指定の場所に荷物を置く。登りだしから階段の連続で、荷物を背負っての階段登りはしんどいものがあった。
指定された重量はどれも違うと思われる重量で、全てに軽い重量で背負わされた感がある。日程の中盤からは下りで廃材を降ろさねばならず、毎日の荷揚げは厳しいものだった。
食事は腹いっぱい食べ、程々に飲んで、早く寝る毎日で、3食の食事の支度がめんどうだった。しかし、仕事は自分のペースでできたので、苦しいながらも気楽な部分もあった。
私は体力的にきつく、藤原さんに比べると重量は背負えず、往復回数も少なめにしかできなかった。
玉川ダム付近では天然記念物のアカガシラカラスバトを見れ、作業道では天然記念物のオオヤドカリを見ることができた。荷揚げの時はカメラを持参しなかったので撮影できないのが残念だった。
また、夜中にトイレに起きたとき見上げた夜空には、眩いばかりの星がキラめいていて美しかった。
大剣山に運ぶ荷物
出来上がった階段
出来上がった歩道
出来上がった梯子階段
藤原さんが帰る前日には、現場を作業する方々からお別れパーティーを開いていただき楽しい夜だった。
私は3日間ほど残り島内を観光し、父島も観光した。
島の人たちは若者と子供が多く、気さくでみんなが挨拶し合う人々で、子供は毎日暗くなるまで外で遊んでいた。 |