奥穂高岳 イメージ
1978年12月28日〜1979年1月3日
パーティ/CL 小泉 昌弘、小田中 智、橋本 久、阿部 信司
コ ー ス/横尾尾根〜槍ヶ岳〜北穂高岳〜奥穂高岳〜涸沢岳西尾根〜新穂高
はじめに
過去に会で槍ヶ岳から奥穂高岳までの縦走を計画したが、北穂高岳を前にして突破できなかった。数年後、若かった小田中から、「冬の槍ヶ岳から奥穂高岳までの縦走をやりたい」旨の相談が持ち込まれた。
私は7年前、東京在住の折、雲表倶楽部の一員として冬の北ア・北鎌尾根をアプローチに、槍ヶ岳、南岳を経て滝谷第1尾根の登攀、下山ルートを北穂高岳、奥穂高岳、明神岳を経て上高地までの山行を経験しており、その経験上、「今の山想会の現状では無理だ」と小田中に即答した。
体力、アイゼンワーク、ピッケルワーク等において注目するような技術が見当たらず、またメンバーの冬山技術は、「小田中で6年弱、橋本は2年弱、阿部(岩大3年)は半年くらいの経験である」との判断と、しかも、「当会は地方版として交流が乏しい現状であった」からである。
それでも3人が私について来て、登りたいと言うので、夏場後半から冬山に対する基本的な訓練を繰り返し実施し、合宿に備えた。
12月28日
夜行列車で、早朝松本に着く時間に合わせて盛岡から新宿へ向かった。見送りは数名で、縦走の成果をどの程度期待しているか疑問であった。
12月29日
早朝、松本に着く。沢渡で「釜トンネルの出口の雪が不安定である」との情報を得ながら、行動を開始する。上高地には15時前に着く。まだ明るいので明神館まで足を伸ばし幕営することにした。アプローチの道はトレースされているためピッチが上がり、初日としては順調である。
幕営はトイレの中、天幕が雪にぬれて重くなるのを防ぐため、環境に恵まれた場所の軒先?を借りる。
12月30日
徳沢園を経由して、横尾山荘を確認する。
横尾谷からトレースが残る3のガリーにルートを求め、稜線を目指す。斜面の雪質は安定していた。所々にデブリが見られたが、ルートを見極めて一気に高度を上げる。
急斜面のルートの取り方で慣れたパーテイか、否かの判断ができる。積雪の状態が悪い時は特に要注意個所である。稜線に出ても樹林帯はP4まで急登が続いていた。
P4は眺望が開けており、大きな尾根が南岳の北側まで続いている。その先に槍ヶ岳が見える。ここは事故(滑落)するルートで無いので安どし、先を急がせた。
幕営は風当たりの少ない横尾ノ歯に近い快適な場所と指示した。途中、先行パーテイの天幕をP5の下で確認した。
今晩は「晴」が観天望気等で確認できるが、「明日の晴は無い」と判断した。急がした理由は、悪天の前に横尾尾根を越して、槍・穂の縦走路に立つとの考えに沿ったものである。
夜空は、星くずが美しく迎えてくれた。
槍ヶ岳・奥穂高岳概念図
12月31日
視界は150m程度で先行パーティのトレースはない。雪綾における雪ぴの読み、ピッケルワークを生かして、横尾ノ歯をノーザイルで通過する。天狗のコルから上は視界の悪さと風の悪さの中でも、斜面が緩いためか確かなアイゼンワークで快調に高度を上げる。
槍・穂の稜線は視界が開けたため、ピストンで槍ヶ岳登頂ができる機会が巡ってきた。
南岳の北側の風当たりの少ない、わかりやすい場所に早めに幕営した。個人装備とザイルを点検して、中岳を経て槍ヶ岳に向かう。
槍ヶ岳の頂上に立つ頃には天候が崩れ始めていた。
慎重に岩場を下り、肩の小屋を横目に急いで幕営地に戻った。長丁場の1日であった。
幕営地から南岳小屋まで行ける時間と体力は温存しているが、故意に「小屋に入れば情が湧く」との判断での幕営である。目的は「冬の北ア、槍・穂の縦走」である。明日に向けての緊張感の持続がいかに大切か、大キレット通過等ではどう行動できるか、機敏さを醸成させる一方法でもある。
槍ヶ岳 イメージ
1月1日
視界不良の中で早朝に天幕を撤収して、南岳小屋を経て大キレットにルートを求めた。
先行パーティのトレースは無く、我がパーティがトップでの行動である。技術、体力等の未熟なパーティが先行すれば、行動範囲が制約される恐れが生じるが、それは無い。
50mにも満たない視界、下から巻き上げる強風に奮闘して各自のポジションを確認、岩綾地帯を確実に下り、また登る。
北穂高岳の直下、雪壁地帯に入る。トレースがあれば余り問題せずに通過できるが、視界が悪いうえに斜面が急で新雪に覆われている。確実なビレーピンとビレー箇所が欲しいが中々見つからない。
小泉は雪壁登行の経験を生かしルート工作を行い、「足場を崩すな、ピッケルを確実に打ち込め」との厳命を出す。北穂高小屋前に全員集結した時、過去の山行から一番の難所を通過したのだと実感した。
計画では北穂高小屋の近くで幕営する予定であったが、まだ正午の時刻、次第に視界も開ける兆候が確認できるようになり、涸沢岳を目指しての登行を継続させた。
時折、雪田に遭遇するが、岩綾の雪は大部分飛ばされており、アイゼンがきしむ。このため、夏場から訓練させたアイゼン技術が生かされ、快適にピッチをあげることができた。
その勢いで白出のコル(穂高小屋)まで伸ばし、夕闇が迫る前に幕営に入った。
眼下に涸沢、北尾根の勇姿を拝み、奥穂高岳の目の前で岳人と遭遇する喜びを得た。
元日の夕日は素晴らしくきれいで、持参したウイスキーを初めて口にしたが、わずかな分量で酔う経済的な3岳人はすぐに変貌してしまった。それだけ緊張しての登高であったのだろう。
大キレット イメージ
1月2日
最終目的地の山、奥穂高岳は晴天で迎えてくれた。全員、早く登頂して、早く帰ろうとの無言の意気込みで鎖場も難なくこなし、頂上に立つ。小田中の野望(情熱)達成の勇姿を写真に収めた。
名残惜しい白出のコルの天幕を早めに撤収する。下山ルートは涸沢岳を登らなければ西尾根に入ることはできない。「かったるい」と冗談を飛ばしながらもスローペースで西尾根の下山ルートに入る。
蒲田富士まではもしもの滑落に遠慮して歩いていたが、トレースされた雪道に入ると、その後は各自のスピードで一気に白出まで下山した。そんな馬力はどこに残っていたのか、たくましさを感じたが、終着地の新穂高温泉までは気が抜けてスローペース。下界の空気にすぐ染まることを知ることになった。
風呂に入り、温泉の近くで幕営した。
涸沢西尾根から見る滝谷 イメージ
1月3日
午前中、松本から特急で新宿を経て、夜の盛岡に着く。
終わりに 「山登りは経験」と言われてきたが、訓練の内容次第で登れる山が増えてくる。謙虚な気持で幾多の訓練をこなしてきたか、が問われている。
特にアルパイン要素のある山を目指すには、体力、アイゼン・ピッケルワークが必要である。グレードを上げるには、的確な確保技術に裏付けられたザイル操作が必要である。
急斜面と荷の負担に打ち勝ち、快適なアイゼンワークを習得し、短期間で冬の槍ヶ岳から奥穂高岳まで縦走が出来たのは、訓練の成果とチームプレーであることを確信した。
盛岡山想会山懐10号より掲載 記:小泉 昌弘 |