西穂高岳〜奥穂高岳(盛岡山想会冬山合宿)

西穂高岳〜奥穂高岳 イメージ

1976年12月28日〜1977年1月3日
 パーティ/CL 佐藤 雅信、SL 稲村 光彦、高木 伸、小田中 智、渡辺 正一


12月28日
 20時55分発「いわて3号」に乗ったが、仙台間近になってから雪の影響を受け、列車は大分遅れ、アルプス1号に間に合うか心配である。


12月29日(晴れ)
 大宮付近で目を覚ます。列車の遅れが1時間以上あったものが20分位まで回復している。
 予定通りアルプス1号に5名の座席を確保する。松本で乗り換え、不要な荷物を駅の一時預り所に預け、予約したタクシーで12時前に出発する。
 約1時間乗って除雪がストップしている湯川に到着、ここから歩き始める。積雪はあまり多くなく、立派なトレースが付いている。気温が低いせいか足音がキュッ、キュッと鳴る。足並みがそろったせいか前方を歩いている他のパーティを抜き、上高地の新装なった木村小屋に到着。
 計画書を出し、素泊まりを申し込む。湯、水をふんだんに使っての夕食はすぐできあがる。駅弁にしろ、松本での昼食にしろ飯がまずかったが、この日の夕食は素晴らしく、明日からの体力を養うのに充分なものであった。

タイム/湯川(13:10)→上高地(17:00)


12月30日(曇りのち吹雪)
 予定通り6時過ぎに軽い体操で身体をほぐし出発する。気温マイナス24度で鼻がツンとくる中、ヤッケ、オーバーズボンを着用し、ライトをつけて進む。田代橋、穂高橋を渡り、トレースに沿って西穂山荘を目指す。
 途中から雪が降り出し、一度脱いだヤッケを再び着用し、最初にラッセルしたパーティに感謝して快調に登る。急斜面が続く中、大体夏道通り進み、9時半ころ西穂山荘に到着する。
 小屋付近には既に何張りかの天幕が張られていたが、思っていたより少ない。小屋で少し休み、アイゼンを付けて出発する。稜線に出ると風が強く、地吹雪で目が痛い。独標付近に幕営の予定だったが、現地には適当な場所がなく、先へ進む。
 途中で会ったパーティからピラミットピークの先に2カ所ばかりテントサイトがあるという情報を得、そこまで進む。
 独標を下る頃からメンバーに凍傷の傾向が出始め、目出し帽を着用し、突風に注意しながら進む。5万分の1の地図では分らないピークを幾つか越し、更にピラミットピークを越すが、適当な設営場所が見つからない。更に小さなピークを幾つか越し、雪の吹き溜まりを見つけ幕営地とする。
 視界は50mもなく、地吹雪は更に激しくなり、急いで設営し、中に潜り込む。

      西穂高岳・奥穂高岳概念図

タイム/上高地(6:15)→西穂山荘(9:35)→独標(11:10)→2,790m幕営(12:10)


12月31日(曇り) 
 昨夜の風はものすごかった。テントを丸ごと飛ばされるかと思うほどだった。天気図では冬型の気圧配置で、好天が望まれなかったが、現在は幾分おさまっている。
 ゆっくりと朝食を取り、9時の天気図を作成後、全員サブザックで西穂高岳に向かう。アンザイレンの必要な所もあったが、荷が軽いため、ザイルを出すこともなく幾つかピークを越し、あっけなく西穂高岳山頂に到着する。小休止後、明日の行動のため少し先まで偵察に出かけるが、天候が悪くなり始めたので、早々に戻る。
 天幕の周りを整備し、張り綱を補強してテントに入る。
 9時と16時の天気図を参考にいろいろ考えた末、明日は私、稲村、小田中が奥穂高岳を目指し、高木、渡辺にテントキーパーを頼む。天気図は強い冬型を示している。

タイム/テント(9:50)→西穂高岳(11:00)→テント(13:00)


1月1日(吹雪)
 予定通り4時に起きてアタックの準備をする。外の風は結構強い。高木、渡辺が作ってくれた朝食を食べ、夜が明けるのと風がおさまるのを待つ。
 6時頃になると、昨夜同様風が幾分弱くなってきた。トランシーバーの交信時間を打ち合わせ、足元が見え始めたころ出発する。出がけは足首が慣れず痛かったが、徐々に調子がつき、短時間で西穂高岳に到着する。
 西穂高岳からはアンザイレンして、30cm位の新雪を踏みしめながらナイフリッジのトラバースの難しい下降をこなす。西穂高岳から先に何パーティかのテントがあったが、まだ行動していない。我々は早い時間に戻るため先を急ぐ。 
 間ノ岳、天狗岳、天狗のコル、ジャンダルム、最難関のロバの耳へと登って行くと、先行するパーティと逆に下りてくるパーティが入り乱れ、時間待ちの憂き目にあう。アンザイレンしていないのに実にノロノロしており、寒い所に長時間待たされ、いい加減頭にくる。アンザイレンしている我々は実にスムーズに、短時間でトラバースを終える。
 この先はナイフリッジのピークを幾つか越え、念願の奥穂高岳頂上に到着する。風がとても強く、雪が舞い上がり、目を開けているのがつらく視界は10mもない。
 記念写真を撮って早々に下山にかかる。姿勢を低くしてルートを見失わないように慎重に歩く。なにしろ岳沢側も飛騨側もスッパリ切れ落ちているため、ちょっとの油断もできない。時々、まつげ、まゆ毛の氷を取り除き、天狗のコルに「やっと」という感じで着いた。
 間ノ岳も「まだ間ノ岳か」という感じで通過し、西穂高岳に着いてホッとしながら天幕に帰着する。
 条件が悪く、トランシーバーで1度も交信できず、心配している2人に感謝し、とにかく中に潜り込む。留守の間にウィンパーテントのポールが大きく曲がるほど風が強く、我々を大変心配していたそうで、あらためて2人に感謝する。


西穂高岳の稜線 イメージ

タイム/テント(6:45)→西穂高岳(7:00)→天狗岳(8:30)→ロバの耳(10:30)→奥穂高岳(11:40)→テント(16:45)


1月2日(吹雪のち晴れ)
 予定の行動を終えたので下山することにする。風は相変わらず強く、天幕をバタバタさせている。眼以外は衣類で完全に覆い外に出る。全員天幕を飛ばされないように一所懸命である。視界は昨日より良く、アンザイレンすることなく西穂山荘を目指す。
 天候が悪く、登った山さえ見られないのが残念だが、心は軽くさわやかである。
 西穂山荘近辺は登ってきた時とは比較にならないほど天幕が張られている。小屋で一休みし、一気に上高地へ下り、下山届けを出し、電話で車の手配をし湯川に向かう。

タイム/テント(8:35)→上高地(11:10)→湯川(14:40)

                             盛岡山想会山懐10号より掲載 記:佐藤 雅信


気象報告
 12月の前半の天気は、冬型の気圧配置もそれほど強くなく、周期も4〜8日程度で、雪の降るのは北海道、東北北部、日本海側に限られていた。中旬以降、シベリヤの高気圧の勢力が強まり、中部山岳地方では降雪が続く。下旬になり、我々が合宿に入る頃から大陸の優勢な高気圧が日本付近に張り出し、正月の5、6日頃まで強い冬型の気圧配置が続いた。この間、各地で大雪があり、気温も低い日が続いた。
 このような気象条件の中で、後立山を中心に大量遭難が発生し、ちょうどその頃我々は穂高岳の稜線で行動していた。
 悪天が年末から正月いっぱい続いたのは珍しいとしても、一冬の中で冬型が10日以上も続くのは、そう珍しいことではない。我々が冬山を歩くにあたって、いかに読図が大切であり、また、それ以上に判断、決断が大切であるか、痛感する。
 入山1日目(29日)は、松本から上高地までの行動であったが、天気は大体晴れ、木村小屋からは日没直前に奥穂高岳もチラッと顔を見せ、最後の展望であった。
 2日目(30日)は、早朝(4時40分)にマイナス24度を記録する。天気図では既に冬型の気圧配置になっており、夜は突風状の風が吹き荒れる。
 3日目(31日)は、冬型が少し弱まり、比較的穏やかな天気だったが、気温は相変わらず低く、マイナス22度(8時)で、視界は500m位だった。
 4日目(1日)は、奥穂高岳のアタックだったが、予測通り午前中まではなんとか天気は持ったが、午後は風雪が強まり苦労してベースに戻る。気温はマイナス20度以下になり、ビバークを強いられたなら、かなり厳しい状態に追い込まれたに違いない。
 5日目(2日)は下山の日だが風は相変わらず強い。しかし、西穂山荘付近ではいくらか日もさし、風も弱くなった。穂高岳の稜線を展望できないまま上高地へ下る。
 気象を担当して省みると、穂高岳連峰は良く知られているように、西高東低の冬型気圧配置になっても極端に風雪が強くないことが分った。この時、後立山では連日猛吹雪だったわけである。
 穂高岳周辺では冬型が続いても行動できるチャンスは結構あるが、これを見つけることは難しく、経験の浅いことを痛感した。そのためには、やはり1ヶ月も前から天気図をとったり、気象データーを集めて、冬型の周期、積雪、地形等を調べ、その地域の特徴を把握しておかなければならない。
 上層の寒気団の張り出しには、富士山の気温の波を押さえておくのが有効だが、行動中温度計を見ながら歩くのは、急激な変化に対応しやすくなるので、良かった。

                             盛岡山想会山懐10号より掲載 記:稲村 光彦
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